世界で活躍する日本の芸術家たち。

世界で活躍する絵本作家:いわさきちひろ

いわさきちひろは福井県武生市生まれの画家・絵本作家です。柔らかいタッチに優しい色彩で描かれた水彩画が特徴で、常に「子どもの幸せと平和」をテーマにしていました。子供のころ、誰もが一度はいわさきちひろの絵本を読んだのではないかと思います。特にアンデルセンの童話は、お話と一緒にいわさきちひろの絵が思い起こされる人も多いのではないでしょうか。やさしさの中にどこかもの悲しさを湛えたいわさきちひろの絵は、一度見たら忘れられない強い印象を残す絵だと思います。

生涯

幼少期~青年期

1918年12月15日、福井県武生市(現在の越前市)に生まれました。三姉妹の長女であった彼女は「知弘」と名付けられました。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭で、ラジオやオルガン、蓄音器などモダンな品々があったそうです。父・正勝はカメラも所有していたため、当時の写真が数多く残っています。子ども向けの本も多くあったのですが、ちひろの気に入るようなものはありませんでした。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一や武井武雄、初山滋らの絵に強く心惹かれました。ちひろはこの頃から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会では度々席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどでした。ちひろは後に、生徒の個性を重んじ、試験もなく成績表も希望者のみに配布されるという東京府立第六高等女学校に入学します。ここでもちひろは絵がうまいと評判でした。その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などもこなしました。距離を選べる適応遠足では最長のコースを歩くのがお決まりだったそうです。

本格的に絵の勉強を始める

女学校二年の三学期、ちひろが14歳の時、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたきました。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たしました。女学校を卒業すると、岡田の教えていた美術学校に進むことを希望したのですが、両親の反対にあい第六高女補習科に進むことになりました。18歳の時にはコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めました。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったそうです。

結婚と終戦

1939年4月(20歳)、三姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、婿養子を迎えることになりました。相手の青年はちひろに好意をもっていたものの、ちひろはどうしても好きになれず形だけの結婚となりました。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡ったのですが、翌年夫が自殺してしまい、帰国します。この出来事でちひろは二度と結婚するまいと心に決めました。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めました。再度習い始めた書の師・小田周洋に絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家を目指しました。1944年、25歳の時には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡りますが、戦況が悪化し年内には帰国しました。翌年5月25日には空襲に遭い、東京中野の家を焼かれてしまいます。そのため母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えました。ちひろはこの時始めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感したそうです。終戦の翌日から約1ヶ月間の愛大に疎開先で書かれた日記「草穂」が今も残っています。「国破れて山河有り」と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説「幸福者」からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られています。

二度目の結婚

1946年1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党しました。5月には党宣伝部の芸術学校で学ぶため、両親に相談することなく上京しました。東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学びました。この頃から数々の絵の仕事を手掛けるようになり、紙芝居「お母さんの話」をきっかけに画家として自立する決心をしました。画家として多忙な日々を送っていたちひろなのですが、1949年の夏、党支部会議で演説する青年・松本善明と出会います。2人は党員として顔を合せるうちに好意を抱くようになり、結婚することを決めました。翌1950年1月21日、レーニンの命日に2人は2人きりのつつましい結婚式をあげました。ちひろは31歳、善明は23歳でした。善明は弁護士をめざし、ちひろは絵を描いてそれを支えました。1951年4月には、長男・松本猛を出産します。同年、善明は司法試験に合格し、1954年4月から本格的に弁護士の仕事をはじめます。善明は自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などに関わり、ちひろは背後から夫を支えました。1963年には、善明が日本共産党から衆議院議員に立候補しますが落選します。しかし1967年に初当選し、ちひろは画家として、1児の母として、そして国会議員の妻として忙しい毎日を送るようになりました。

初めての絵本と評価

1940年代から50年代にかけてのちひろは油彩画も多く手掛けており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主でした。1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆を振るわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞しました。ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間に渡って続けられました。1956年には、福音館書店の月間絵本シリーズ「こどものとも」で小林純一の詩に挿絵をつけて「ひとりでできるよ」を制作しました。これがちひろの初めての絵本でした。この頃のちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子供の姿を描くべきだなどと批判があり、ちひろ自身もそのことで悩んでいました。1963年には、雑誌「子どものしあわせ」の表紙絵を担当することになるのですが、これがその後の作品に大きく影響を与えます。「子供を題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはこれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をします。1962年の作品「子ども」を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念します。1964年、日本共産党の内紛でちひろ夫婦と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころをを境に、丸木俊の影響から抜け出して独自の画風を負い始めます。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられています。当初は2色もしくは3色刷りだったのですが、1969年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれました。この仕事はちひろが亡くなる1974年まで続けられ、ちひろのライフワークとなりました。